熊本紀.大恭十六(3301)年、藤野が権力を掌握し、天下を混亂させた。天皇は泣き、奸邪を除くために、諸侯たちが奮起し、幕は開けた。 熊本紀.大恭十七(3302)年、拓哉公が盟主となり、千葉を攻撃し、藤野は逃走し、捕えられ、処刑された。天皇は政治を取り戻し、拓哉公に恩を與えたが、受け取らなかった。諸侯たちは怒り、夜に皇宮を襲撃し、天皇は流亡し、行方不明となった。拓哉公は海路を通って、熊本に帰った。 敦賀紀.大恭十八(3303)年、涼介公は東京に入り、天皇を捕え、千葉に迎えられ、諸侯たちを召集し、天皇を擁護するために戦った。諸侯たちは封地に逃げる。 熊本紀.大恭十九(3304)年、拓哉公は山口を襲撃し、勢如破竹に進撃し、文雄公は驚いて、対抗した。尾道軍は王の命令を受けない、南に四國を征伐し、鬆山、高知を破った。拓哉公は怒り、軍を引き回して、尾道室戶に困らせたが、自刃した。數ヶ月後、彼は鳥取を逼した、文雄公は屬侯となった。これは「山口の戦爭」である(熊本:2.5萬人、鳥取:4.7萬人)。 敦賀紀.大恭二十一(3306)年、拓哉公は神戶を襲撃し、しかし、関西の地震があり、敦賀は負債をして、援助を求めたが、諸侯たちは熊本に懼れて、來なかった。拓哉公は長距離で一直線に進撃し、京都、大阪、奈良を破った。數ヶ月後、彼は敦賀に逼した、涼介公は伊勢に逃げた。彼は軍を三つの路に分からせ、中央路は敵と戦い、上下路は伏兵を敷いていた。熊本軍は混亂したが、追撃の田邊に向下路の兵士が集まった。熊本軍は強い勢いで、不勝で敗退した。 熊本紀.大恭二十二(3307)年、敦賀軍は川に隠れて、夜に襲撃し、朝に隠れていた。軍はそれに耐えることができなかった、山民が助けると疑われて、彼らは田莊を搗り込んだ。數ヶ月後、敦賀軍は山中に困っていた、涼介公は降り伏した。これは「関西の大戦」である(熊本:6.3萬人、敦賀:8.1萬人)。 熊本紀.大恭二十三(3308)年、拓哉公は千葉に入り、天皇は天雄將軍を賜した。長野、靜岡、福島、晉如、劄幌はすべて臣服した。 熊本紀.大恭二十四(3309)年、拓哉公は富士山に入り、日照神を參拜した。 晉如紀.大恭二十四(3309)年、石卷の地震があり、弘樹公は機會をすり抜けて、食料を剽掠し、去った。 敦賀紀.大恭二十四(3309)年、涼介公は鬱して、病気が重く、病院に居る。未幾、彼は逝った。 熊本紀.大恭二十六(3311)年、拓哉公は真庭を巡回し、先皇の墓を參拜した。その旁で左右が,泥棒が土手に落ちてきて、刀を持って刺しを意図していた。拓哉公は後退し、剣を引き出して彼を蹴り飛ばし、その旁を通り過ぎた。泥棒は炳線を燃やし、自爆することを意図していたので、拓哉公が死亡した。これは「真庭の変」です。 熊本紀.大恭二十七(3312)年、真彥公は事件を調査し、結果を得られなかった。 敦賀紀.大恭二十八(3313)年、野武公は熊本に到著し、真彥公に參拜した。 敦賀紀.大恭二十九(3314)年、野武公は鳥取に到著し、義的な商売について話し、文雄公は恐怖と不安を感じ、従うことを拒否した。數か月後、野武公は書函を上げ、偽證を作り、文雄公が百濟と通じていると誣陷し、意図的に反亂を企てているとし、真彥公は怒り、文雄公を處刑し、行長公を立てた。 譯文: 熊本紀.大恭十六(3301)年,藤野當權,禍亂天下,天皇涕淚,為除奸邪,諸公奮起,序幕遂開。 熊本紀.大恭十七(3302)年,拓哉公舉盟主,平推千葉,藤野走,獲擒,斬之,天皇還政,賜拓哉公關白,不受,諸公忿,夜襲皇宮,天皇流亡,不知所蹤,拓哉公走海道,歸熊本。 敦賀紀.大恭十八(3303)年,涼介公入東京,獲天皇,迎駕千葉,召諸公,戰若殃天皇,則群滅之,於是諸公走封地。 熊本紀.大恭十九(3304)年,拓哉公襲山口,勢如破竹,文雄公驚恐,迎敵,尾道軍不受王令,南征四國,破鬆山、高知,拓哉公怒,調軍回防,困尾道室戶,自刎,數月,逼鳥取,文雄公降,為屬候。是為“山口之戰”(熊本:2.5萬???鳥取:4.7萬) 敦賀紀.大恭二十一(3306)年,拓哉公襲神戶,時關西地震,敦賀透支,求援,諸王懼熊本,弗來,拓哉公長驅直入,破京都、大阪、奈良,找書苑 www.zhaoshuyuan.com 數月,逼敦賀,涼介公走伊勢,分軍三路,中路迎敵,上下路伏擊,熊本軍不堪其擾,追擊田邊,下路劫其道,擊之,大勝,然熊本軍後至,其勢猛,不敵,敗退山中。 熊本紀.大恭二十二(3307)年,敦賀軍伏山川,至夜則襲,至明則隱,軍隊不堪其擾,疑有山民助之,遂搗田莊,數月,敦賀軍困死山中,涼介公降。是為“關西大戰”。 (熊本:6.3萬?????敦賀:8.1萬) 熊本紀.大恭二十三(3308)年,拓哉公入千葉,天皇賜天雄將軍。長野、靜岡、福島、晉如、劄幌皆為臣服。 熊本紀.大恭二十四(3309)年,拓哉公登富士山,拜日照神。 晉如紀.大恭二十四(3309)年,石卷地震,弘樹公趁入,掠糧,乃去。 敦賀紀.大恭二十四(3309)年,涼介公抑鬱,疾重,臥榻,未幾,乃卒。 熊本紀.大恭二十六(3311)年,拓哉公巡真庭,拜先皇墓,左右撤之,忽有賊人,崩於土堆,持刀刃,欲行刺,拓哉公退步,拔劍斬之,呼喚左右,賊人乃燃引線,以歸於盡,拓哉公卒。是為“真庭之變”。 熊本紀.大恭二十七(3312)年,真彥公查案,未果。 敦賀紀.大恭二十八(3313)年,野武公至熊本,拜真彥。 敦賀紀.大恭二十九(3314)年,野武公至鳥取,商義事,文雄公憂懼,弗從。數月,野武公上書,作偽證,誣文雄公通百濟,意反,真彥公怒,誅文雄公,立行長公。