北伐劄幌(1 / 1)

晉如紀?治仁二十一(3334)年、悟信公が劄幌を攻撃し、領海軍を古今する。軍を左右に分割したが、當時の気候は異常で、海麵は霧が起き、氷が浮かぶ。左路軍は氷山にぶつかり、多くの負傷者が出た。北海道に到著するまで、負傷者が半分を超えた。右路軍は到著し、両軍が合流し、港を占領したが、一人も見當たらない。都市に入り、家々が嵐が埋め盡くしていた。數日後、軍心が散ればれていた。悟信公は言った「逃げる者は斬る」。劄幌に到著すると、人影も見當たらない、鬼城のようだった。   晉如紀?治仁二十二(3335)年、3か月が経って、軍糧が盡き、軍心が散ればれていた。悟信公はなんとかしなければならないと思って、一時に青森に帰るように命令した。小牧港に到著すると、艦船が壊れていて、海軍が全部凍り付いていた。その狀態は悲劇的であった。その頃、劄幌の鬼麵軍が起きて、攻撃され、大敗した。悟信公は逃げ出した。これは「小牧の戦爭」だった。(晉如:8萬、劄幌:2萬)   譯文:   晉如紀.治仁二十一(3334)年,悟信公攻劄幌,領海軍,分左右兩路,時氣候異常,海麵漫霧,多浮冰,左路軍遇冰山,傷者眾,至北海道,傷殘者過半。右路軍到,兩軍交匯,攻占港口,然未見一人。入城,屋舍為暴雪掩埋,數日,軍心渙散,悟信公言退者斬。行至劄幌,未見有人,似鬼城。   晉如紀.治仁二十二(3335)年,過三月,軍糧盡,軍心散,悟信公無奈,令暫歸青森,至小牧港,艦船毀壞,海軍皆凍死,其狀淒慘,時劄幌鬼麵軍四起,擊之,大敗。悟信公潰逃。是為“小牧之戰”。(晉如:8萬?劄幌:2萬)