靜岡紀?淳平二十(3364)年、龍沢公は劄幌を訪れ、敏夫公が款待した。當時、北國には大雪災が起き、飢民が無數になっていた。龍沢公は物資を調度し、飢民に救済し、流民を國內に安恤した。敏夫公は感激し、帰屬した意向を持った。 劄幌紀?淳平二十一(3365)年、敏夫公は禮品を備えて、靜岡の使者を迎接した。彼の息子、翔太は言った:“昔に悟信公が私たちを攻撃し、20萬の兵士を擁し、軍民が血に染まる戦いで、30年の太平を得た;今龍沢公が私たちを攻撃しているが、兵士が一人もいない、小さな恩恵を示して、軍民が帰向他に欲しい、この後の清算で、あなたたちは必ず後悔する!”言葉を終えた後、彼は伏兵を使い、來使を斬り、靜岡との戦爭を宣言した。敏夫公はそのニュースを聞いて、怒りが胸に積み、突然倒れた。翔太は即位した。 靜岡紀?淳平二十二(3366)年、龍沢公は10萬の兵士を率いて、劄幌を征伐した。翔太公は「小牧」の古い計畫に従い、軍民が深山に隠れることをしようとしたが、ときに暴雪が降り注ぐと、民が飢え寒さに耐えることができなかった。翔太公は彼らを誅り盡くした。民は無奈して從った。その後、龍沢公が到著したとき、大軍は港に駐留し、小股の兵士が市に入り、物資所を設けた。山民は饑え寒さに耐えることができず、そこにたどり著いた。翔太公の大本営は明らかになったとき、龍沢公は攻撃して、大勝を収めた。翔太公は辱めを受けて、自刃した。その後、天下は一統になった。これは「雪國の戦爭」である(靜岡:3萬、劄幌:8萬)。 靜岡紀?淳平二十三(3367)年、龍沢公は千葉に到著した。天皇は彼の功勛に対して、讓位を思い出したが、龍沢公は拒否した。數ヶ月後、天皇は突然重病になり、遺言を伝えた。龍沢公はそれを受け取り、その後、千葉は滅亡し、靜岡が興えた。 譯文: 靜岡紀.淳平二十(3364)年,龍澤公訪劄幌,敏夫公宴之,時北國雪災,饑民無數,龍澤公調物資,賑之,安流民於境內,敏夫公感激,欲歸附。 劄幌紀.淳平二十一(3365)年,敏夫公備禮事,迎靜岡使,其子翔太曰:“昔悟信公攻我,擁二十萬眾,軍民以血戰,得太平三十載;今龍澤公攻我,無一兵卒爾,略施小惠,軍民欲歸之,是日後清算,汝輩必悔之!”言罷,遂伏兵,斬來使,宣戰靜岡。敏夫公聞之,怒氣攻心,卒。翔太即位。 靜岡紀.淳平二十二(3366)年,龍澤公領軍十萬眾,征劄幌,翔太公欲從“小牧”舊計,使軍民隱匿深山,時暴雪至,民饑寒,弗從,翔太遂誅之,民無奈,從之。屬於,龍澤公至,大軍駐港口,小股入城,設物資所,山民不堪饑寒,遂投之,報信。翔太公大營乃顯,龍澤公擊之,大勝。翔太公以為辱,自刎,於是天下一統。是為“雪國之戰”(靜岡:3萬??劄幌:8萬) 靜岡紀.淳平二十三(3367)年,龍澤公至千葉,天皇以其功業,欲禪位,龍澤公拒之。數月,天皇忽大疾,傳遺召,龍澤公乃受,至此,千葉隕,靜岡興。